実家が無くなっても、仁川に帰る理由を探してしまう|文・平井珠生

著: 平井珠生
2024年夏、突然実家が無くなった。

私は兵庫県宝塚市の仁川(にがわ)という街で、10歳から20歳までの10年間を過ごした。仁川は、阪急今津線沿線にある閑静な住宅街で、とにかく坂が多い。ただ、その坂の多さのおかげで、高台では夜景が美しく、そこが街の魅力だ。

小さい頃から、兵庫県内、それも西宮市から宝塚市、そしてその中でも阪急今津線の小林駅から隣の仁川駅への引越しという、超近距離引越し(約2km圏内)を繰り返していた。

そのせいなのか、生まれた場所は正直そんなに覚えていない。ただ一つ覚えているとしたら、当時住んでいた団地の敷地内で野良猫におでこを引っ掻かれたことくらいだ。

猫への恐怖心をしっかりと植え付けられつつ、何度かの引越しを経て、小学4年生の頃、われわれ家族は仁川という街に腰を落ち着けた。これまで近所のスーパーの品揃えや品質に常に小さな不満を抱えていた母が、ついに「コープ仁川」という全幅の信頼を寄せられるスーパーを発見したことによって、平井家の引越しジャーニーは終わりを迎えたのだった。

母はこの街で築40年くらいの一戸建てを買い、リフォームをして、それはそれはかわいいマイホームを手に入れた。

漆喰塗りのリビングの壁、造り付けの本棚にぎっしり本が並べられた、通称「図書スペース」、朝日が差し込む洗面台。目に映るもの全てがうれしくて、なんだか誇らしくて、ここが私の家なんだという事実にただただ胸を躍らせていた。

母は、私と弟にそれぞれの自室の壁の色を選ばせてくれた。小学生にして、当時変に尖っていた私は、あえて沼のような深い緑色をチョイス。数年後、弟のサーモンピンク色の壁のかわいさに気付き、奥歯を噛みしめることになるとも知らずに。


おしゃれなチラシなどを貼って必死にあのときの後悔を誤魔化していた、沼色の壁

そんな、家族それぞれのこだわりが詰まった家だった。あの家には今、別の家族が住んでいる。母が急な引越しを決断したからだ。

こんなふうに書くと、私が母の引越しに対して恨みを持っているみたいに見えてしまうかもしれないが、そういうことではない。ただ私は、あの家が無くなった今、仁川という街に帰る理由まで無くなってしまったような気がして寂しい。

とはいえ、仁川について今思い付くものといえば、例の駅前のコープに阪神競馬場、弁天池というちょっとした言い伝えのある池、あとは通っていた仁川小学校くらいだ。帰らなくたって特に困らない。けれど、思い出というのがそんなに単純なものじゃないこともわかっている。

さきほど名前を挙げた「弁天池」。この池には子どもを池に引きずり込む主がいて、怒った子どもたちが、今度は主を池から引っ張り上げ、話し合いの末、「もう引きずり込みません」と主に約束させ和解した、という民話があるらしい。*1

昔の子ども、強し。

弁天池の周辺には「弁天池公園」という名の公園があって、池では鴨や鯉などいろいろな生き物がチャプチャプ泳ぎ、弁天池公園のベンチでは、近所に住む人たちが季節ごとの花を眺めたり、おしゃべりを楽しんだりしていた。

そんな様子を横目で見ながら、私は思春期特有の物思いに耽ったり、犬を散歩させたりして過ごした。

弁天池の水面に映る空や、池の向こうに広がるちょっとした山などの景色を見るたび、子どもながら偉そうに「日本、悪くないやん」と思ったものだった。大人になった今、ああいう場所が家からちょっと歩いた距離にあったことの素晴らしさを身に沁みて感じる。


仁川駅の北西にある弁天池

しかし、そんなほのぼのとした思い出ばかりではない。

反抗期真っ只中の中学時代の朝、自転車で弁天池の横道を通過しながら世界へのイライラが限界を迎え、割と大きな声で「ワー!!!」と叫んだこと。

高校の帰り、これまた自転車で仁川駅から弁天池までのゆるやかな坂を、当時大流行していた映画『アナと雪の女王』の主題歌「レット・イット・ゴー」を激唱しながら下っていたところ、サビの「ありの〜〜〜」の部分で車輪を滑らせ大転倒したこと。

家出したものの、行き場も度胸もなくて駅前のローソンでどん兵衛を買って弁天池公園のベンチに座り、ちゅるちゅる静かに食べた記憶も今になって蘇ってきた。


かつて家出をした際に「どん兵衛」をすすったベンチ

きっと私のほかにも、弁天池の周りで歌ったり、転けたり、叫んだりしている人がいるはずだ。そういう、訪れる人のさまざまな感情を静かに、どんと構えて見ていてくれた弁天池。時を経た今、ありがとうと伝えたい。

弁天池から少し南に歩いたところにあるのが、阪急今津線の仁川駅だ。

小学校こそ、家から十数分の仁川小学校に通っていたが、中高6年間自由に好きなことができる時間があるという母からの誘い文句に惹かれて中学受験をし、とある女子校に合格した。中高時代の通学時の交通手段は自転車と電車だった。
私にとって仁川駅は、外界へ通じる大きな門のようでもあった。その門を通って学校へ行き、知らなかった文化を知り、ちょっとずつ大人になった。

中高時代、私が足繁く通ったのは兵庫県で一番の繁華街、神戸三宮だった。ここは、学校があった阪急神戸線・六甲駅からわずか3駅分の場所に位置している。
最近何年かは、三宮に足を運ぶことはなかったのだが、整備されておしゃれに様変わりした駅前の様子は、地元の友人のSNSからなんとなく伝わってきている。


2018年頃の三宮

こうなると気になるのが、モトコーの現在だ。

モトコーとは、元町高架通商店街の通称で、神戸三宮駅からは西に15分ほど歩いたところにある。こちらも現在は整備され、見るからにディープな面構えから一変、レンガ調で西洋風の見た目になっているそうだ。

モトコーこそ、私の青春時代そのものだったと思う。

初めてモトコーを訪れたのは、中学1年生になりたての頃だった。母もかつて通った中高一貫の女子校を受験し、合格した私に、母は彼女自身の中高時代の過ごし方を教えてくれた。
三宮には駅前のキラキラしたプリクラ店やショッピングモールだけでなく、モトコーというディープで面白い場所が隣接していること、そこにはまだ見たこともないアングラ文化がひしめき合っていること。

どこで何を食べ、服を買い、歩き回っていたのかを事細かく聞いた私が、母と同じ過ごし方に強い憧れを抱くまでにそう時間はかからなかった。

最初は母に連れられて恐る恐るモトコーの雑貨屋を覗くだけだった私も、気が付けば自分で作った奇抜な柄のスカートをはいて、新たな洋服制作に使えそうなフェルト玉を買い漁ったり、アメコミショップの店員さんと顔見知りになったりするなど、モトコーとの関係を築いていった。

あの商店街を往復すればするほど、大人になっていくような気がしていた。同級生のみんなとは一味違う三宮での過ごし方を知っていることに、確かな優越感も覚えていた。

高揚感とたくさんのフェルト玉を抱えて、仁川駅に帰ってくる。夕方を過ぎて薄暗くなった街を急ぎ足で歩いて、家の前の坂道を最後の力を振り絞って上りきり、家の門まで迎えにきてくれる犬を撫でて、家に入る。学校が休みの日はだいたいいつも、そんなふうに過ごしていた。こんな日々が、高校を卒業するまで続いた。

大人になってから、久しぶりにモトコーに行ってみようかなと思ったこともあったが、行くと、中学時代のこそばゆい記憶が一気に蘇ってくるような気がして、ずっと二の足を踏んでいる。「人と違うことこそ正義」だと信じて疑わなかった当時の私のファッションは、思い出すだけでちょっと恐ろしい。


鳩の絵を描いた自作のスカート。人と違うことこそ正義

肌色のストッキングに、例のフェルト玉を大量に縫い付けたものをはいて出かけたり、ワンピースに手作りのウサギのぬいぐるみを取り付けてみたり。でも当時の私はそれを本気でかわいいと思っていたわけなので、あまり否定はしないでおこうと思う。

偶然立ち寄った古道具屋のお洒落なおばあさまに、そのときはいていた手作りのお絵描きスカートをベタ褒めされ、なんとオーダーまでして頂き、ど緊張しながらミシンをかけ、絵を描き再び店を訪れたら私のことは完全に忘れられていた、なんてこともあった。

そんな、いくつもの甘く切ない思いを抱えながら私の学生時代は終わり、二十歳になって俳優を志し上京した。これまで自分が帰る場所だったあの坂の上の家の呼び名はいつしか「実家」になり、そうして仁川は「故郷」となった。

年末に帰省しては、阪急甲陽線沿いの苦楽園駅(一度聞いたら忘れない駅名)にある「カルボニエラ・デル・トロ」というイタリア料理店に家族で行き、水牛のモッツァレラと前菜の盛り合わせから食事をはじめる。店主は母の小学校時代の同級生だそうで、彼も交えて東京での生活を報告するのが常だった。

年が明けると家族揃っておめかしをして、三宮にある写真館「Studio View」に家族写真を撮りに行く。
そうして仁川駅からの帰り道は、私の知らない近頃のご近所事情などを母と弟が面白おかしく教えてくれて、大笑いしながら歩くのだった。

学生時代はちょっと長くて面倒だと思っていた駅からの帰り道が、上京してからはずいぶん短く感じるようになっていた。家の門まで迎えに来てくれる犬は、ちゃんと年を取っていた。

少しずつ仁川という街と私の肉体はペリペリと剥がれていって、実家も無くなった今、もう訪れることはないかもしれない街になった。

いや。待てよ。一つ、完全にやり残したことがあった。

時は高校時代に遡る。学校からの帰り道、一人で西宮北口駅にある大型ショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」に寄り道するのがお決まりになっていた時期があった。一階にあるフードコートでコロッケを食べるかクレープを食べるかで迷った結果、その日の私はクレープを選んだ。


阪急西宮北口(駅)。「SUUMO住みたい街ランキング2024年 関西」では2位

アルバイトをしているわけでもなかったので常にお金がなく、500円くらいのクレープを買ってその日のお財布は空っぽになってしまった。久々のクレープでお腹いっぱい胸いっぱいになりながら仁川駅に着いた途端、思い出した。

自転車を有料駐輪場に停めていたことを。

普段は駅前地下の月極駐輪場を利用していたのに、その日は朝寝坊して遅刻ギリギリになってしまい、1秒でも早く電車に飛び乗ろうと、地上にある時間制の駐輪場に自転車を停めていたのだ。

財布の中身は空なので、自転車を取り出すための300円が払えない。そのまま歩いて帰ってしまえば金額はどんどん跳ね上がり、母にもひどく怒られてしまうだろう。駅前で絶望していたそのとき、「あれ、え、たま?」と声をかけられた。

小学6年生のとき、同じクラスで仲の良かったSちゃんだった。久しぶりの再会に、お互いキャアキャア言いながら盛り上がり、気付いた頃には「クレープでお金がなくなり自転車が取り出せない」という、高校生にしては恥ずかしすぎる事件を洗いざらい話してしまっていた。するとSちゃんは笑いながら財布を取り出し、300円を貸してくれた。

命拾い、完全なる命拾いだった。Sちゃんに深くお礼をして、必ず返済しますと固く誓い、自転車に乗って帰宅。そして再び思い出した。

Sちゃんの連絡先を知らない。

その日以降、私は駅周辺でSちゃんの姿を探しつつ帰宅するようになったのだが、今日まで彼女と再会することはなかった。
Sちゃんに300円を返さなければいけない。そのために私は、仁川に帰らなければならない。実家が無くなったとか、関係ない。


あのとき、偶然駅前でSちゃんに遭遇したことで、実家が無くなってからも仁川に帰る必要性が生まれた。ありがたい。とか言う前に300円返せ、という話なのだが、それでもやっぱりありがたい。帰らなくてもよくなってしまった故郷に帰る理由ができたことが、私はとてもうれしい。

もし次に仁川に帰ったときにSちゃんに会えて、300円を返せたとしても、私はまた次の理由を探すのだろうと思う。

著者:平井珠生

平井珠生

1998年生まれ。兵庫県出身。俳優、ラジオパーソナリティ。
舞台、映画を中心に活動中。主な出演作に、映画『放課後アングラーライフ』(2023年)、舞台『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』(2024年)、『他者の国』(2025年)など。さらに、FM NACK5のラジオ番組『ラジオのアナ〜ラジアナ』木曜日のパーソナリティを務めており、2025年1月3日の放送で今年の抱負を「しっとり素直」とした。
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ショートドラマ:あの卓が気になる 

編集:岡本尚之